
我が家の息子(知的なし自閉症スペクトラム)たち、ぜんぜん学校に適応できません。
ほとんど家にいます。
特性のある息子たちを見ながらインクルーシブ教育を考えた時、いやいや、我が家にとってインクルーシブ教育はぜんぜんニーズに合ってない!と正直思ってしまいます。
現在、文部科学省はインクルーシブ教育システムの構築を目指して特別支援教育を始めようとしています。こちら↓に記載されています。
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/044/attach/1321668.htm
ざっくり要約すると、
障害の有無に関わらず、お互いを尊重し合い、互いに助け合っていける共生社会の構築の為に、インクルーシブ教育がとても重要。インクルーシブ教育を実現する為に。障害のある子どもには一人一人の障害の状態や教育的ニーズ等に応じた合理的配慮が提供される必要がある。
というような内容です。
「基本的な方向性としては、障害のある子どもと障害のない子どもが、できるだけ同じ場で共に学ぶことを目指すべきである。」
と記載されています。
なるほど、なるほど。
言いたい事はわかりますよ。
わかります。
文科省は「障害のある子ども」と一言で簡単に書いてるけど、それぞれの子どもが持っている障害特性は多種多様である事を分かってる?と文句をつけたくなりますが、それはとりあえず置いといて…
どの程度の「同じ場」で、どの程度の「できるだけ」を指しているのかは明確にはわかりませんが、仮に同じ学校で、同じ教室でインクルーシブ教育が受けられたとしたら、本当にそんな事が可能ならば、素晴らしい世の中になるでしょうね~。
しかし、現実は甘くない。(と私は思う)
先生の指示が秒速で理解できる子、3回聞いて出来る子、ゆっくり10回聞いて出来る子。
この三者が同じ場所で心地よく共に学習できるのか?
それだけの違いだけでも、イライラや不安を子ども達は日々感じると思うのよ。
もっと早くたくさん学びたい。
もっとゆっくりかみ砕いて学びたい。
人間には、どうしたって能力の差ってものがある。
ましてや障害がある・なしでは、さらに一層能力に差が出るのが現実。
子どもそれぞれの能力によって、目指している目標も違う。
それはどうしようもないじゃない?
それなのに同じ教科を同じフィールドで共に学べというか?
そんな無茶な…。
先生の「みんなで」「お互いを思い合って」という一言が、果たして子ども達に伝わるかどうか。
ヘタしたら、お互いにお互いの存在が疎ましくなる可能性すらある。
そうなったら、共生どころか、敵対関係になっちゃう。
私は、共生(インクルーシブ)を目指す前に一つ必要な段階があると思う。
それは、
まず、能力の違いは違いで受け止める。
そして、その能力に合わせて基本的には、
住み分けする。
共生とは真逆だけど、まずは、それぞれの場所で快適に過ごす事。
その環境が整う事が大切ではと思う。
多様な人種が住んでいる国で、どうやってうまくやっているか?
私が見る限り、うまく住み分けしてるのよ。
争いが起きないように、住み分けしてる。
住み分けしつつ、共有スペースを設けている。
自分の生活環境が安心できて初めて違う世界に目がいくってもんだと思う。
互いを認め合う共生には、それぞれ個人が気持ちのゆとりがある事が前提だと思う。
障害がある子には、障害のある子に合うように配慮された安心できる場所。
定型の子には、定型の子同士で安心して学ぶことができる場所。
まずは、そういう場所を充実させて欲しいというのが私の願い。
現実、今、それぞれの場所がどうにもフィットしない子がめちゃめちゃたくさんいると思います。
普通級、適応指導教室、支援級、支援学校、選択肢が4つしかない。
環境が本人のニーズに合わず、適応障害を起こしている狭間に立たされた子ども達。
そういう子ども達を置き去りにして、インクルーシブ教育はないだろ?
と、正直思ってしまう。
現状の日本の教育システム(選択肢4つだけ)の延長上でインクルーシブ教育を進めるというのなら、せめて互いの場所で情操教育を先に進めて欲しい。
誰にでも出来る事、出来ない事がある。
出来る事が優れている。
とか、
出来ない事が恥ずかしい、悪い。
とか、
そういう優劣意識をなくす情操教育をして欲しい。
出来る部分は人を助ける為の能力。
出来ない部分は助けてもらう。出来る事で恩返しする。
能力の違いというのは、お互いをカバーするためのもの。
それが当たり前と子ども達が思うようになる事が、インクルーシブ教育の第一歩でもいいんじゃない?
違う事で「敵」意識を持たせない教育こそがまず、大切なんだと思うんですが、どうでしょう?
ではまた次回!
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